一話
『余韻の残り始めた場所』
昼休みのチャイムが鳴り終え、屋上へと続く階段を草枝卓治はゆっくりと上っていく。
――ガチャリ。
少し鈍い音を立てて、錆びた扉がゆっくりと開く。
「んぁ〜あ。ったく、それにしてもよく寝たぁ」
四限目は机に突っ伏して、爆睡していたらしく、まったく記憶がない。
心地よい風を肌で感じ、大きな欠伸をしながら伸びをする。
ひとりで呟いていてもしかたないので、近くにあるベンチに腰をかけた。
しばらく眠りの余韻に浸れていると、不意に、
「だーれだ?」
声と共に視界が真っ暗になる。しかし、声に聞き覚えがあるので、本人とはあえて違う名前を呼んでみた。自然に。
正美、有香、里沙……幸子!
「……はぁ〜。止めろって、幸子」
ふっ、自分で自惚れる気はないが、素晴らしい(?)作戦に笑みが零れてしまう。
「幸子って誰よ……!」
「ぬぐぉ!」
目を覆っていた手のひらが握られる。その所為で、目が……
「美月! 俺の隣の家で、親同士の仲が超良くて、学園でも人気のある幼なじみの綾野美月さんにございます! 目を覆っている手をお放しくださいませぇ!」
「あのねぇ、誰に私の説明をしているわけ?」
そっと目を覆っていた手が除かれ、素晴らしく澄み渡った青空が目の前に広がる。
後ろに振り返ると、そこには呆れた形相で仁王立ちしている美月がいた。
「まあ、そこは気にするな。で、用はなんだ?」
ひとりのんびりと昼寝をしたかったのに、邪魔するとはいい度胸だ。たとえ『超』が付くほど美人で可憐な幼なじみでも、唯一のストレス解消を害するとは。
突然にも青い風呂敷で包まれた物体が、視界に入ってくる。
も、もしやこれは、噂の――
「弁当?」
「そう、弁当。今日は珍しく早起きしたの。だから、気合入れて弁当を作っていたら、いろいろと作りすぎちゃったの。卓治の家には誰もいないでしょ? だから、いつも購買でパンばっかり食べているアンタに弁当を作ってきてあげたの。喜びなさいよ。まあ、私のじゃないからテキトーに作ったし、出来は良くないと思うけど」
ベンチに座ったまま弁当を受け取る。
両手と顔を空に向けて、喜んだように「わーい」と言ってみた。
しかし、思いのほかウケは悪かった。
「前々からアホだな、とは思ってたけど、まさかここまで重症だったとはね。で、何処の異星人と電波を発信受信してたわけ? してないとは言わせないわよ」
美月、お前の方が明らかにおかしい。どうやったらそんな解釈ができるのやら。
「してませんよっと……おぉ!? スゲェ!」
感嘆の声を上げたのは、バカらしいことを考えながら美月から貰った弁当を蓋を開けたからだった。
芸術? とまで思ってしまいそうになる。それほどまでに素晴らしい出来だった。
百パーセント、テキトーに作ってできるような代物ではない。
「いっただきまーす!」
勢い良く、端で彩られた美味しそうな蟹クリームコロッケを食べてみる。
「うっ……ぅぅ…………ありえねぇ……」
弁当を返却して、ベンチに横になる。し、舌が痙攣してやがる……
返却する前にチラッと見えたコロッケの断面には、何故か紫色の物体が入っていた。見たのではない、見えたのだ。
「あれ、女子Aが言ってた通りの食材を入れてみたのに。やっぱりダメだったかぁー」
そうだった。忘れていたが、この綾野美月。どんなに美味しそうな食材で料理しても、壊滅的に不味い料理兵器しか、絶対に完成しないのである。それより、女子Aって誰だよ。
「ヤバ……腹が痛くなってきた。保健室に行ってくる」
「逝ってらっしゃーい」
覚束ない足取りで、今にも壊れそうなドアを開ける。錆の付いた手を握り締めて、一歩一歩と階段を降りていった。
◆ ◇ ◆
草枝卓治には両親がいない。良くある交通事故で亡くなったとかじゃなくて、父親の赴任に母親が付いていっているだけなのだ。行き先は外国なので、連絡方法は国際電話か手紙。最近はめっきり連絡が来なくなり、心配で仕方がないのだが。
「またお主は保健室か。もしや、幼なじみがいるのも拘らず、風灯り子先生を狙っているのではなかろうな」
背後からの禍々しい気配を感じながら、あえて無視してドアに手をかける。
「あいや待たれい。問いに対して答をせんとは、なかなか良い度胸をしておるではないか」
無駄に年寄りの貫禄を醸し出した声で、話しかけてくる輩が背後に立っている。
このまま保健室に入ってもいいのだが、後で五月蝿く言われそうなので、一応言い返してみる。
「なんだよ、近衛。俺は腹が痛いから保健室に来ているだけ。お前はロリコンだから、どうせ“女子B”狙いだろ?」
「女子Bなどではない! 南友紀子と呼ぶがよろし。時にお主は、何故に腹痛と?」
「美月の手作り弁当を食ったら、急に腹が痛くなったんだよ。正確には腹痛じゃなくて、食あたりだ」
言うと共に振り返ると、唖然とした表情の高居近衛が壁に凭れ掛かっていた。卓治に向かって真っ白な歯を輝かせ、右手は心臓付近の胸を押さえている。
バカか、こいつは。
「そうで……あったか。手作り弁当な仲に成っておったとは……大親友ながら不覚なり。ならば、お主はやはり綾野美月に決定だ――」
手作り弁当な仲、初めて聞く用語に戸惑ってしまった卓治だが、すぐに内容を理解して持ち直した。
十メートルあった距離を、刹那にしてゼロにする。
「ぐはぁ!」
近衛の鳩尾に拳が突き刺さる。そのまま深く突き、腹を蝕むように抉る。
「ぬぐぉぉおお」
傍から見ても異常な光景だが、幸運なことに周りには誰もいない。
抉っていた拳を離し、保健室のドアに手をかける。
「ぐっ、ハァ、ハァ、ハァ……う、腕を上げたな。腹が痛いながらも完璧な拳だった。もはや我から何も教えることはないであろう。屍を越えて、行くがよい……」
無視してドアを開く。
「失礼しまーす。草枝です」
元気良く声を上げ、保健室の一歩足を踏み出す。
「あら、また来たのね。今週だけで五回も来てくれるなんて、灯り子とっても嬉しいわ〜」
甘ったるい声を保健室内に響かせながら、衛生上悪いだろうと思われる、紅く長い髪を揺らせながら、保健教師である風灯り子は寄ってくる。
白衣にはツーンとした臭いが纏わりついていて、何日も洗っていないのが窺えた。
この先生、確かに美人なんだけど、何処かズレているんだよな。
「風先生、今週って……まだ今日は火曜日ですけど」
「あら、そうだったの。いやね、徹夜してたら時間の感覚がおかしくなるのよ〜。って、卓ちゃんダメだよぉ〜。灯り子のことは風先生じゃなくて、灯り子ちゃん♪ でしょ?」
…………。
「胃腸薬はありますか?」
「無視しちゃいや〜ん。卓ちゃんは灯り子のことが嫌いなの? なの?」
あー、やっぱりダメだ。この先生にだけは慣れない。先が読めない。
「灯り子先生。次の授業は体育なんですよ。ここでノロノロとしていたら着替えができなくなってしまいます。なので、早く胃腸薬を出してください。あと、先生のことは嫌いじゃありません」
苦手なだけです。ついでに言うと、本当は体育ではありません。
「そっかー、嫌いじゃないかー。やったぁー! じゃ、パパっと胃腸薬を用意するね♪」
回転する椅子から立ち上がり、ガラス張りの戸棚を開ける。
申し分なしの腰を振りながら探している。そんな後姿が、妙に官能的だった。
「えっと、確かこの辺にあったと思うんだけどな〜……あぁ! ――痛ッ!」
何か閃いたような声を上げて顔を勢い良く上げた所為で、棚に頭をぶつけてしまった。
「痛……」
頭を抱えてうずくまる保健教師を見て、どうしてこの学園にいるのかが不思議に思えてきた。
「もう、灯り子のバカ」
ポカポカの擬音が一番似合う格好で、自分の頭を叩く。それでも痛かったらしく、またうずくまる。
絶対にこの先生には慣れないと、何故か心の奥で感じてしまった卓治がいた。
「どうしたんですか? 灯り子先生」
「ごめ〜ん。胃腸薬、灯り子が全部使っちゃった♪」
学校の金で買った薬品を、何故に個人のために使用するのだ。そこまで貧乏なのか、この先生は。
「失礼しましたー」
素早く保健室を出て、静かにドアを閉める。
まだ保健室特有を臭いが鼻に残って、妙な違和感がする。
保健室を出て右に向かい、二階へと続く階段を駆け上がる。自分のクラスに入って、中庭側の一番後ろにある席に座り、次の授業のために教科書やノートを用意する。
まだざわついている教室にはやはり女子が大半を占めていた。弁当を広げて食べる者、ワイワイと噂で盛り上がる者。
自分の腹が痛いのも忘れてしまい、机に突っ伏していた。理由は簡単。昼ご飯を食べてないからだ。
「眠たそうだねー。もしかして、変な物でも食べた?」
「美月の手作り弁当」
「うっ、よく食べたね。あの有害な兵器を」
「ああ。自分でも凄いと思った」
顔を前に向けると、学園一幼い女子生徒――南友紀子が前の席に座っていた。
背丈は異常に小さく、スリーサイズは十歳児と同じくらい。可愛らしい制服に幼い声が絶妙に合っていて、友紀子のためにあるような制服のデザインをしている。
「はい、胃腸薬。美月の作る兵器を食べる気なら、これくらいは常に持ってなくちゃね。あ、それと――」
胃腸薬が置いてある机の上に重箱が置かれる。普通に五段はあり、これをひとりで食べきるのは至難の業だ。それより、どうやって持ってきたのかを知りたくなってしまう。
「昼は食べてないんでしょ? 私の弁当で良かったら食べて。ひとりだと食べきれないから」
「さすがに五段は大きすぎるだろ。友紀子が作ったのか?」
「今日はお母さんが作ったの。見たら分かるでしょ? 私がひとりで五段も食べれるわけがないよ」
それもそうだ。友紀子みたいに小さい背丈の少女が、こんなにも食べきれるわけがない。食べようとしても、胃が受け付けないだろう。
「私がいつも作るのは、三段なの。時間がないからね」
「そうか。そいつは凄いな。じゃ、お言葉に甘えて……頂きます」
「頂きます」
箸を貰い、一段目のご飯を頂く。
キラキラと光り輝く白米と、何年も漬けていたと思われる梅干が絶妙なハーモニーを醸し出していて、匠の業のようだ。しかし、重箱とはお祝いごとに使用するのだから、ここは赤飯が妥当なのだとは思うのだが、そこは伏せておこう。
予想を遥に上回る出来に、歓喜を覚えながら貪り食う。
稀に友紀子の方を見るが、いつも満面の笑みで微笑み返してくれる。手には箸が握られておらず、先ほどから卓治の食べる顔をずっと眺めていた。
「ど、うしたんだ? 食べないのか?」
「うん♪ お節に関しては、自分が作った物しか食べない主義なの。だから、今日は焼きそばパンを食べるの」
そう言うと、友紀子は自分の机に歩いていき、バッグの中からゴソゴソと焼きそばパンを勢い良く取り出して、真上に掲げる。
何がしたいんだろうか。友紀子の行動はよく分からん。
しばらく掲げたまま硬直していたが、何かをキッカケに動き出した。テクテクと歩いてきて、前の席に座る。
「食べる?」
まだ新品同様の焼きそばパンを出してくる。しかし、五段もの強敵を相手にしている卓治には、ザコ敵でさえもラスボス級に感じられてしまう。
「無理」
「そう。じゃあ、食べるのファイトぉ!」
有無を言わずに食べまくる。周りの会話などに耳も傾けず。
「ふっ、その強敵を相手にして尚、お主は立ち向かうか。その勇気、志し、感涙の極みだ。我も加戦してやろう」
いつの間にか隣の席に座っていた近衛に驚いたが、食べても食べても減らないお節にもっと驚いた。
ん? 先ほど近衛が加戦してくれるって……
「本当か? 加戦してくれるのか?」
「同じことを言わせるな。男に二言はあるわけがなかろう。さあ! 我に箸を!」
五月蝿い声を上げたと同時に、懐に手を突っ込む。そして引き抜くと、その手には何故か箸が握られていた。
「さて、マイ箸で頂くとするか。南友紀子よ、頂くぞ」
「いいよー」
「でわっ!」
その姿は神だった。全ての食べ物を、一回の咀嚼だけで味わっている。米でも一回の咀嚼で糖分を出していた。
近衛に負けじと、卓治も箸を進める。
しかし、どれだけ頑張っても近衛には勝てない。勝負はしていないが、まず箸を動かすスピードが違った。
「お主、どうしたのだ? 箸が止まって見えるぞ。そのような微々たる動きでは、南友紀子の母上が作り上げた料理をクリアすることはできないぞ! 南友紀子よ、美味いぞ!」
「高居くんは私と正反対だね。私はお母さんのお節が好きじゃないの」
「ぬぉあぬ!? ふっ、我だって嫌いだぞ。同じのようだな、南友紀子よ」
前髪を軽く掻き上げる。近衛自身だって、完璧に決まっていると思っただろう。
しかし、現実は、
「だったら、食べなくてもいいよ。好きじゃないけど、嫌いってわけじゃないもん」
王道的な言葉が返ってくる。
「ま、待て! 冗談だ。美味いに決まっている」
近衛の前から一段なくなったときに言ったのだが、何故か友紀子は止まらない。
「冗談を言う人、私は嫌い。そんな人は食べなくてもいいの! 私は全部、卓治くんに食べてもらうから」
「ぐはぁ!」
床にバナナの皮があるわけでもないのに、マンガでありそうな転び方をする。名演技だ。
ん? 待てよ……今さっき、全部って言ってたような気がする。全部を食べてもらうってことは、残すことは許されない!?
「卓治くんなら、全部食べてくれるもん」
言ってしまった、言われてしまった。
「頑張れ……お主」
地に伏していたはずの近衛が、何故か背後に回って肩に手を置いている。
何故だ! お前は立っているのだ……。大ダメージを食らって尚立っているのが、こっちとしては驚きだ。
「もう……我は自我を保てれない。保健室に向かう……後は頼んだ……」
風を纏い、刹那にして姿を消す。
前々から思っていたが、近衛は多分、いや絶対に魔法使いに違いない。
「ささっ、パパッと食べちゃってよ」
友紀子は卓治に催促をするが、お節と言うのはそう簡単に食べれるようなものではない。
宴会などで出されるのでさえ三段なのに、やはり五段というのは腹に効いている。
胃腸薬を友紀子が持っていて、本当に良かったと心の奥で感謝している卓治だった。
勢い良く、お節の料理を腹に流し込む。
「どう?」
感想を訊かれるが、やっぱり、
「多かった」
と答えるしかなかった。
どんな風に聞き取られたのか心配で、友紀子の顔を見る。俯いていたからだ。
「多かったかー。まあ、食べれたからいいよね♪ じゃ、私はジュース買ってくるから、またねー」
そう言うと、素早くお節を包み、自分のバッグに詰め込んで去っていった。
あいつ、サイフは持っていなかったと思うんだけど……
「なーに、気にする必要はないであろう。南友紀子は自動販売機、略してジーハンと会話ができるのだからな。本人曰くだがな」
いつものことだが、やっぱり気になる。
問題です。高井近衛は、いったい何処から湧いてくるのでしょう?
答えは簡単です。何処からともなく湧いてくるのです。
「ゴキブリ……」
「ん? お主はたった今、何かを申したか?」
「んにゃ、申してないですよ〜」
「なら良いのだが。それでだ、明日からは何だと思う? 連休だ。旅行日和だとは思わないか? 思うだろ。故に、何処へ行く? 海に決まっている。幼なじみの綾野美月と仲間の南友紀子は誘うのであろう? 絶対に誘うのだ」
「一度に多く質問しておいて、後で全部自ら答えるのは止めてくれ。訳が分からんようになってくる。で、今の季節に海かよ。寒くないか?」
今はまだ、ゴールデンウィークを前にした日。まだ海に入るには気合のいる季節なのだが、どうやらこいつは海開きをしたいらしい。
「寒い寒くないなんて、もはや関係のないこと。我は夏を春で満喫するのだ! それでこそ本当の男」
「そんなもんなのか? と言うより、美月と友紀子は来ないだろ。まだ春だし」
浜辺に行ったところで、別に泳ぐ以外には貝を取ったりワカメを採ったりするだけで、他にすることが思いつかない。
美月はカナヅチだし、海にはトラウマを抱いていると母親より聞いている。
友紀子に関してはあまり分からないが、海には行かないから水着がスクール水着しかないと、女子達と話していたのを偶然にも聞いてしまったことがある。
ふたりとも海に行くのは難しいのだから、やはり誘うのこそ無理ってものがある。
「なーに、心配あるまいて。お主が誘えば、南友紀子は分からないが、綾野美月は確実に来てくれるだろう。どれだけ海が嫌いでも、トラウマを持っていようとも、な」
やはり情報網が幅広い近衛。常人では知らないようなプライベートなことでも、簡単に知ってしまう。それこそ赤子の手を捻るようなもの。
「俺が言っても、お前が言っても、誰が言っても変わらないだろ。しかも、俺だって行くとは言っていないぞ。まあ、暇だから別にいいけどな」
確かにそうなのだ。今年は珍しいことに、ゴールデンウィークに予定が全然入っていない。昨年は親族の集まりがあるとかで、故郷に帰っていたし、一昨年は買い物セールで色々な店を回らされた。昨日に何か言われるだろうと思っていたが、期待は外れていたようで、何も言ってこない。それはそれで遊べるから嬉しいのだが、やはり心の何処かで寂しい気もする。
そんな気持ちを取っ払うように、近衛は背中を思いっきり叩いた。
綺麗にパチンっと音がしたが、音ほどそこまで威力はなく、あまり痛くはなかった。
「元気を出すのだ。おっ! 学園の華、幼なじみ綾野美月の登場だ。さあ、早く誘うのだ。いや、お前の名前を使用させてもらう。そちらのほうが、こちらも会話が捗るのでな」
近衛の無駄に大きな声に反応したのか、自分の名前に興味を示したのは分からないが、どちらにせよこちらに向かって歩いているのは間違いないようだ。
「綾野美月よ。明日からゴールデンウィークだ。一足先の夏を満喫しないか?」
なるほど。最初は行き場所を言わずに、興味だけを抱かせる作戦をとったか。近衛もなかなかの策士だ。
しかも、語り口調は匠の業だ。相手の気持ちを鷲掴みして放さないに違いない。
「一足先の夏、か。面白そうだね。花火か何かをするの?」
思ったとおり、食いつき最高だ。選んだ餌は素晴らしい。後はどうやってリールを巻き上げるのかが問題だ。美月ほどの大きな魚は、そう易々と釣れる訳がない。
「海だ。一足先に海開きをしようと言うことなのだが、どうだ?」
言葉の選択を間違えたな。これでは、どれだけテクニックがあっても、大物を釣ることはできない。
「パス。私は海って好きじゃないの。誘ってくれるのは嬉しいけど」
糸が切れた、と思った瞬間のこと。
「そうか、綾野美月は行かないのか。では、今年は他のクラスから女子を調達するしかないな。今年は卓治も乗り気であるからにして、女子調達なんぞ赤子の手を捻り潰すようなものだ」
「赤子なんだから、捻り潰すのは止めろって」
いつものように、ボケた近衛にツッコミを入れるのだが、おかしい。いつもならば、美月もツッコミを入れるはずなのだが。
美月の顔を窺ってみる。すると、何かに驚いたような表情をしていた。
「アンタも、行くの?」
震えている指先をこちらに向けて、尋ねてきた。別に本当のことを言ってもいいが、ここまで震えている美月は初めてだ。堪能しておく価値はあるに違いない。
「もちろん行くよ。美月は行かないのか。まあ、海が嫌いなら仕方がないよな」
横目で近衛を見ると、頷いていた。これも心理的な攻撃のひとつなのだろうか。
「き、嫌いなわけじゃない、し。近頃になって、海も行ってみたいなって思ってきたから……行ってあげる。仕方なく、だけどね」
「まったく、お前は素直じゃないな。行きたいなら、素直に行きたいですって言えよ。誰も引かないからさ」
「そういう問題じゃないの!」
「いやいやいや、痴話な喧嘩は後にしてもらいたい。綾野美月よ、南友紀子も誘ってはくれないか? 仲間なのに孤立させては可哀想であろう。頼んだぞ、綾野美月よ」
卓治と美月の間に割って入り、喧嘩とは違ういつもの会話を止めさせる。やはり、こいつの目当ては友紀子のスクール水着姿に違いない。
「近衛くん。私のことは“美月”って呼んでよ。フルネームで呼ばれるのはツライものがあるよ。聞いてても変な感じがするし」
それは前々から疑問に思っていた。男はお主とか呼び捨てなのに、女だけはフルネームで呼んでいる。何故に区別するのか。
三人で話していたことなのに、教室のみんなも聴き入っていた。それほどまでに興味のあることなのだろう。
「なーに、脳がそのような信号を出してしまうのだから、仕方のないことであろう。別に男子と女子を区別しているわけでも、差別しているわけでもないのだ。ん? 何故にそのような目で見るのだ」
「本当かよー」「なんか私、差別されているみたいで嫌だなー」「俺は別に、近衛と特別に仲がいいってわけでもないから構わないけどね」「近衛くんって、昔の人みたいだよね」
色々な意見が教室を飛び交う。それが野次であったり、好意的な言葉だったかは別だが。
「我が嘘を言うわけがないであろう」
言っても、教室のざわめきは止まることを知らない。
「えーい、これでは会話にならぬではないか」
――キーンコーンカーンコーン……
ざわめきではなく、近衛の声が掻き消された。
教室内は一斉に沈黙と化し、席を立っていた者、教室外に出ていた者、クラスメート全員が即座に入室する。
廊下からは、コツコツと革靴の足音が近づいてくる。
「よーし、今日も愚者どもは着席しているな」
ドアが開く音と同時に、かなり失礼なことを言ってくれる。
この天凪学園で一番怖い先生として君臨する者が入ってきたのだから、誰も声を出すものがいない。
「では、社会の教科書五ページから四十五ページまで読め。出席番号六番の草枝」
無駄に長いとこまで読まされてしまう。それが社会の授業なのだ。
昼休みが終わったのに、今日も一日が長く感じられる。そう心の奥で思った卓治であった。
――――――――次へ続く……。
タイトルは珍しくちゃんと決めました。
まあ、ノーマルの題名は“ありきたり物語”です。
まだ続くんで、そこら辺は宜しく。